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2009.07.03 (Fri)
イヌに噛まれた。
相方「・・・・・・。何の比喩?」
いやあの、マジイヌにマジ噛みをですね。
自転車漕いでたら、通りがかった大型犬がいきなり襲いかかってきたのね。
別に転びはしなかったし、スリングに入れてたぷちタロ(8ヶ月)も平気だし、そのまま通りすぎたのね。
ところが左太ももが痛いような気がしたので、立ち止まって見てみたのね。
血がにじんでるじゃない。
狂 犬 病 (゜□゜;)!?
の三文字が頭に浮かんだので、現場に戻ったのね。
三頭の大型犬を連れた三人のおばちゃんが、心配そうに私を見てるのね。
てか噛んだのはどのイヌなのか判んない。
「大丈夫!?」
と訊かれたけど、マジイヌにマジ噛みされたのが生まれて初めての経験なので、私は果たして大丈夫なのかとこちらがお訊きしたかったのんですが。
ところがあちらも、よその人を噛んだのは生まれて初めてらしくて要領を得ないのね。
(自転車を怖がるワンちゃんだというのは判った)
狂犬病の心配はないと言うので、そのまま別れて、用事を済ませて帰宅したのよ。
噛まれたところがズキズキしてきた。
洗浄消毒しようとしたら、スカートがズタズタになってるのに気づいた。
家庭の医学書を見たら「出血や腫れがある場合、すぐに医療機関に行きましょう」と書いてある。
ひー。
折あしく(よく?)集金に訪れた新聞屋さんに、最寄の外科病院の所在を訊いて、再び自転車で出かけたら、道に迷ったのね。
そしたら何たる奇跡、さっきのイヌの飼い主さんに呼び止められたわよ。
私を心配して原チャリで辺りを探し回ってくれていたらしい。感謝。
病院の場所を訊いて、連絡先も交換しましたよ。
お医者様いわく、見た目より傷は深いらしい。
イヌの噛み傷は後から悪化してくることもあるので、しばらく様子を見るため毎日通院しなさいとのこと。
化膿止めの薬をもらった。
てか「何の比喩?」とは、鋭いとこ突くわねアナタ。
いやあの、マジイヌにマジ噛みをですね。
自転車漕いでたら、通りがかった大型犬がいきなり襲いかかってきたのね。
別に転びはしなかったし、スリングに入れてたぷちタロ(8ヶ月)も平気だし、そのまま通りすぎたのね。
ところが左太ももが痛いような気がしたので、立ち止まって見てみたのね。
血がにじんでるじゃない。
狂 犬 病 (゜□゜;)!?
の三文字が頭に浮かんだので、現場に戻ったのね。
三頭の大型犬を連れた三人のおばちゃんが、心配そうに私を見てるのね。
てか噛んだのはどのイヌなのか判んない。
「大丈夫!?」
と訊かれたけど、マジイヌにマジ噛みされたのが生まれて初めての経験なので、私は果たして大丈夫なのかとこちらがお訊きしたかったのんですが。
ところがあちらも、よその人を噛んだのは生まれて初めてらしくて要領を得ないのね。
(自転車を怖がるワンちゃんだというのは判った)
狂犬病の心配はないと言うので、そのまま別れて、用事を済ませて帰宅したのよ。
噛まれたところがズキズキしてきた。
洗浄消毒しようとしたら、スカートがズタズタになってるのに気づいた。
家庭の医学書を見たら「出血や腫れがある場合、すぐに医療機関に行きましょう」と書いてある。
ひー。
折あしく(よく?)集金に訪れた新聞屋さんに、最寄の外科病院の所在を訊いて、再び自転車で出かけたら、道に迷ったのね。
そしたら何たる奇跡、さっきのイヌの飼い主さんに呼び止められたわよ。
私を心配して原チャリで辺りを探し回ってくれていたらしい。感謝。
病院の場所を訊いて、連絡先も交換しましたよ。
お医者様いわく、見た目より傷は深いらしい。
イヌの噛み傷は後から悪化してくることもあるので、しばらく様子を見るため毎日通院しなさいとのこと。
化膿止めの薬をもらった。
てか「何の比喩?」とは、鋭いとこ突くわねアナタ。
2009.06.26 (Fri)
子供は「ハート」なんかもたない
【heartless】
ハートレス。ハート(=他者へのリスペクト)のない。
無情な。冷酷な。
子供はみな「ハートレス」さ。
連中ときたら、どいつもこいつも他人のことなんかお構いナシ。
無情で冷酷で残酷で非礼、かつ自由奔放でえらく魅力的だ。
彼らだってときに「愛情」を見せることがあるけれど、それは身近にいる大人たちの「ハート」をただ模倣してるにすぎない。
彼らは身近な大人たちの「ハート」を繰りかえし模倣しながら、行動や心理パターンを少しずつ魂に刻みつけてく。
情緒的に大人になるということは、自分のモノとしての「ハート」を獲得することじゃないかと思うのよ。
愛情深い大人に育まれた子供は、いずれ愛情深い大人に成長するという道理さ。
ところが、たとえば親とはぐれた子供たち(あるいは深刻な機能不全家庭で育った子供たち)には、模倣すべき「ハート」がない。
ネバーランドに行くこともなく、そのまま「ハート」を見つけることもできなければ(友達や先生、書物でもいい)、彼らは「ハート」をもたない大人に成長してしまう。
そんな彼らは、他者への情緒的依存をやめらんない。
子供時代特有の驚異的な模倣力を失ったあとで、それを克服するのは至難の業だ。
「ハートレス」の自覚なき大人は、子供のように「ハート」のぬくもりを求めながらも、そいつを貪り食うことしかできないために、永遠に満たされないままなんだろう。
**********
マイケル・ジャクソンさん:死去 50歳
日本時間の今朝ですた。
若い頃はフック船長になって「このクソガキー!」と叫びながらワニに食われるつもりでいたけれど、思いがけなくウェンディやってる自分がなにげに愛しい。
かつて子供だった自分、そしてこれから年老いていく自分へのリスペクトを覚えるようになったのは、ひょっとしてあんたのおかげだったと思うよ。
バイバイ。
永遠の子供たちによろしく。
ハートレス。ハート(=他者へのリスペクト)のない。
無情な。冷酷な。
子供はみな「ハートレス」さ。
連中ときたら、どいつもこいつも他人のことなんかお構いナシ。
無情で冷酷で残酷で非礼、かつ自由奔放でえらく魅力的だ。
彼らだってときに「愛情」を見せることがあるけれど、それは身近にいる大人たちの「ハート」をただ模倣してるにすぎない。
彼らは身近な大人たちの「ハート」を繰りかえし模倣しながら、行動や心理パターンを少しずつ魂に刻みつけてく。
情緒的に大人になるということは、自分のモノとしての「ハート」を獲得することじゃないかと思うのよ。
愛情深い大人に育まれた子供は、いずれ愛情深い大人に成長するという道理さ。
ところが、たとえば親とはぐれた子供たち(あるいは深刻な機能不全家庭で育った子供たち)には、模倣すべき「ハート」がない。
ネバーランドに行くこともなく、そのまま「ハート」を見つけることもできなければ(友達や先生、書物でもいい)、彼らは「ハート」をもたない大人に成長してしまう。
そんな彼らは、他者への情緒的依存をやめらんない。
子供時代特有の驚異的な模倣力を失ったあとで、それを克服するのは至難の業だ。
「ハートレス」の自覚なき大人は、子供のように「ハート」のぬくもりを求めながらも、そいつを貪り食うことしかできないために、永遠に満たされないままなんだろう。
**********
マイケル・ジャクソンさん:死去 50歳
日本時間の今朝ですた。
若い頃はフック船長になって「このクソガキー!」と叫びながらワニに食われるつもりでいたけれど、思いがけなくウェンディやってる自分がなにげに愛しい。
かつて子供だった自分、そしてこれから年老いていく自分へのリスペクトを覚えるようになったのは、ひょっとしてあんたのおかげだったと思うよ。
バイバイ。
永遠の子供たちによろしく。
2009.06.06 (Sat)
ねずみのよめいり。
表現の自由はあくまで、権力に対する表現の自由であり、弱者に対しては、担保されていない
(井上ひさし)
弱者って誰。
ホントの「弱者」ってのは、「声をもたない人」「声を失った人」、あるいは「強者」によって「声」を封じられた人たちすべてのことだと思う。
派遣切りに遭った挙句「自己責任だ」と突き放される人とか、
虐待やハラスメントに遭う子供やお年寄りや病人とか、
歴史から忘れ去られた人たちとか、
不良のレッテルを貼られたニコガク野球部とか、
彼らの「声」は誰にも届かない。
沈黙や雑音の中からそいつを聞き取ることができるのは、
彼らの「顔」(=真の名、固有性、つながり、かけがえのなさ、コンテクスト)を見出した者、
または封じられた自分の「声」を見出そうとしている者、
あるいはその両方を兼ね備えた者のいずれかと思うがどないなもんじゃろう。
【声】
(1)発声器官から出される音。
(2)泣き声、笑い声、悲鳴、怒号など。
(3)言葉。言語。
(4)文字。文章。
(5)絵。音楽。
(6)表情。合図。
(7)想い。
ちなみに我が家のぷちタロ(0歳7ヶ月)は、大の大人である私を、声色一つでこき使っている。
彼女こそ最強。
2009.05.30 (Sat)
嫌いなタイプを教えなさい。
→「俺の残酷を止めてくれ。」からの続き
■前回のあらすじ
わちきは情緒的に未成熟な大人が大嫌いなのさ。
■それはなぜなのかと考えた
その人がどんな人なのか知りたいとき、「どんなタイプの人が嫌いか」を聞いてみると、けっこう参考になると思うのだ。
たとえば私も先日の記事で、
と書いたけど、私だって人の心を弄んだり、人を絶望させたり、人を苦しませて喜んだりする快感くらい知っているのだ。
(てか知らなきゃ、大の大人が物語なんぞ楽しんだりはしないのだ)
実は「嫌いなタイプ」を問われるということは、私たち自身が直視できずにいる負の一面を、衆人の前にさらけ出してしまうという、実に恐るべきトラップなのだ。
私たちが「うわっコイツ不快ッ」と直感したとき、そこには私たち自身が隠したがってるナニカがあると見て間違いないのだ。
そしてその不快なナニカは、けっしてよそ事ではなく、他ならぬ自分自身がもっているモノなのだ。
外道衆なワ・タ・シ とか
情緒的に未熟なワ・タ・シ とか、
それは鏡に映った現在の自分なのか
あるいは克服したはずの過去の自分なのか
それともいずれ直面する未来の自分なのか とか、
いずれにせよこうやってナニカを書くという営みはまったくもって、
ああっ、こっ恥ずかしい
■前回のあらすじ
わちきは情緒的に未成熟な大人が大嫌いなのさ。
■それはなぜなのかと考えた
その人がどんな人なのか知りたいとき、「どんなタイプの人が嫌いか」を聞いてみると、けっこう参考になると思うのだ。
たとえば私も先日の記事で、
人間のくせに、人の心を弄んだり、人を絶望させたり、人を苦しませて喜んだりする外道衆みたいなヤツがそこかしこにいる。
お前は愛せない!
と書いたけど、私だって人の心を弄んだり、人を絶望させたり、人を苦しませて喜んだりする快感くらい知っているのだ。
(てか知らなきゃ、大の大人が物語なんぞ楽しんだりはしないのだ)
実は「嫌いなタイプ」を問われるということは、私たち自身が直視できずにいる負の一面を、衆人の前にさらけ出してしまうという、実に恐るべきトラップなのだ。
私たちが「うわっコイツ不快ッ」と直感したとき、そこには私たち自身が隠したがってるナニカがあると見て間違いないのだ。
そしてその不快なナニカは、けっしてよそ事ではなく、他ならぬ自分自身がもっているモノなのだ。
外道衆なワ・タ・シ とか
情緒的に未熟なワ・タ・シ とか、
それは鏡に映った現在の自分なのか
あるいは克服したはずの過去の自分なのか
それともいずれ直面する未来の自分なのか とか、
いずれにせよこうやってナニカを書くという営みはまったくもって、
ああっ、こっ恥ずかしい
2009.05.28 (Thu)
愛っていう大義名分がないと
こっ恥ずかしくて何も書けやしない。
どうやらそいつが私の羞恥心、
ああっ、こっ恥ずかしい
何を隠したいのかというと、
それが解ってたらアンタ表現なんか、
ああっ、こっ恥ずかしい
【大義名分】
侵略や弾圧、搾取、差別といった壮大なギャグをより楽しむためのお約束ごとのことである。
(アンサイクロペディア)
どうやらそいつが私の羞恥心、
ああっ、こっ恥ずかしい
何を隠したいのかというと、
それが解ってたらアンタ表現なんか、
ああっ、こっ恥ずかしい
【大義名分】
侵略や弾圧、搾取、差別といった壮大なギャグをより楽しむためのお約束ごとのことである。
(アンサイクロペディア)
2009.04.29 (Wed)
罰ゲームつきバトン〜東京タワーでウラダンス〜
2009.04.07 (Tue)
俺の残酷を止めてくれ。
→「○○格差社会」からの続き
■前回のあらすじ
タロちゃんは「成熟格差社会」を無自覚なまま支持していた自分に気づいて、ショックを受けたのでありました。
■ショックを受けた理由は次に尽きます
自覚することなく〈あいつら〉を抑圧・排斥していた残酷な〈わたし〉を発見したから。(40字)
この場合の〈あいつら〉ってのは「情緒的に未熟な大人」のこと。
それは私にとっての「過去の自分」「克服してきた(はずの)自分」でもあるわけです。
人間って、「過去に克服してきた(はずの)自分」に対しては、ものすごく残酷になれると思うんですね。
たとえば「未開人」を迫害してきた「進歩人」とか、「子供」を虐待する「大人」とか、「嫁」を憎む「姑」とか、「ミーハー」を蔑む「オタク」とか。
後者はときとして、前者を害することに残酷な快感を覚え酔いしれることがあります。
そして自分の暴力行為を、「権利」「しつけ」「教育」「粛清」「革命」「啓蒙」「治療」「モラル」「正義」とかいう言葉で正当化して、上下関係(=格差)を固定しようとします。
私にとって、この上下の格差を固定して疑わないこと、疑いを許さないこと=【悪】なのんです。
上下格差を設け固定する試み自体が、悪なのではありません。
いったん固定化された格差を疑わないこと、疑いを許さないこと、あるいはどうせ変わりはしないのだという諦めが、人を残酷に駆り立てるのんです。
(→「嫌いなタイプを教えなさい。」に続く)
■前回のあらすじ
タロちゃんは「成熟格差社会」を無自覚なまま支持していた自分に気づいて、ショックを受けたのでありました。
■ショックを受けた理由は次に尽きます
自覚することなく〈あいつら〉を抑圧・排斥していた残酷な〈わたし〉を発見したから。(40字)
この場合の〈あいつら〉ってのは「情緒的に未熟な大人」のこと。
それは私にとっての「過去の自分」「克服してきた(はずの)自分」でもあるわけです。
人間って、「過去に克服してきた(はずの)自分」に対しては、ものすごく残酷になれると思うんですね。
たとえば「未開人」を迫害してきた「進歩人」とか、「子供」を虐待する「大人」とか、「嫁」を憎む「姑」とか、「ミーハー」を蔑む「オタク」とか。
後者はときとして、前者を害することに残酷な快感を覚え酔いしれることがあります。
そして自分の暴力行為を、「権利」「しつけ」「教育」「粛清」「革命」「啓蒙」「治療」「モラル」「正義」とかいう言葉で正当化して、上下関係(=格差)を固定しようとします。
私にとって、この上下の格差を固定して疑わないこと、疑いを許さないこと=【悪】なのんです。
上下格差を設け固定する試み自体が、悪なのではありません。
いったん固定化された格差を疑わないこと、疑いを許さないこと、あるいはどうせ変わりはしないのだという諦めが、人を残酷に駆り立てるのんです。
(→「嫌いなタイプを教えなさい。」に続く)

