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2012.03.22 (Thu)

[妄想あるいは仮説] 用は「厠」で足しましょう。

kujira_za

どうも私たちは「誰かを嫌うこと」に罪悪感を覚えるらしい。“負の感情を向けることで災いを招く”といった類の、素朴で原始的な信仰。
03-21 11:10

私にも、遠くからその気配を感じるだけで、いや名前を聞くだけで、目眩を起こすほど嫌いな人がいる。この不快感を自分の胸だけに秘めておくのは苦しいが、なかなか誰にも話せない。それは「誰かを嫌うこと」に罪悪感があるからだということに気づいた。
03-21 11:17

以前とても「いい人」が知り合いにいて、いろいろ世話を焼いてくれるのだけど、感情的にすごくムリしてるのがビシビシ伝わってきたので、「私のこと嫌いならムリしないでくれ」と言ったら、ものすごい剣幕でブチ切れされたことがある。ああここ逆鱗だったんだな、と今になって思う。私もムリしてる彼女を気持ち悪いと思っていたのに、「よくしてくれるから」と言い聞かせながら嫌悪感にフタをしていた。お互い様だ。
03-21 11:39

「私には嫌いな人なんていない」と公言する人によく会ってきたけど、「嫌う」というのは自分に脅威を与える対象を知らせる心身のアラーム。アラーム切ってる人は容赦なく傷つけられながら「大丈夫」と言ってるけど大丈夫じゃないだろそれ
03-21 11:54

「誰かを嫌う」という罪悪感にフタをして「いい人」を生きようとすると、「いい人であるはずの自分が誰かを傷つけるはずがない」→「傷ついているのは私の方」→「私を傷つけるあなたは悪い人」という思考の流れになるのかもしれない。
03-21 12:01

「あの人が嫌い」と告白するのは罪悪感が伴う。だから「ここだけの話」、第三者に聞かれる心配のない場所でなければ語られない。たとえば親友や信頼できる家族、いのちの電話や臨床心理士とか。
03-21 12:10

ところが「ここだけの話」が第三者に開かれてることが多いのも事実なわけで。政治とか女の噂話とか、最近ではSNSとかTwitterとか。第三者に向かって不用意に自分の「罪」を告白するから、当然炎上するわけで。
03-21 12:13

「あの人が嫌い」という話が「ここだけの話」にとどまる限り、誰かを嫌うという「罪」は水に流されたりはしない。逆に第三者に暴かれることで、私たちはその「罪」を死に物狂いになって水に流そうとするのではないかしらん。
03-21 12:43

【まとめ】自分の罪深さを知り、理解しつづけていくためにも、第三者が入り込む心配のない「ここだけの話」はとってもとっても大事。
03-21 12:58

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2012.02.15 (Wed)

[舞台] 幹の会「王女メディア」

とんでもない舞台を観てしまった・・・
平幹二郎さんのメディアはこれが最後だそうです。
機会があればぜひ皆さんにも観ていただきたい・・・

■ 突然ですが、

人は「情」に流されるというけれど、その「情」を司っているのは「理」ではないだろか。

そしてその「理」は、「運命」あるいは「宿命」と言い換えることはできないだろか。

「理」も「運命」も、私たちがこの世に生まれおちた瞬間から、無意識のうちに繰り返し刷り込まれ、書き込まれ、死ぬまで演じ続けるだろう「人生脚本」のことだ。
「運命に抗う」ということは、与えられた脚本を自らの手で書き直す試みでもある。

この「人生脚本」は、個人の生き方を支配するにとどまらない。
交わる人々をすべて巻き込み、機に応じて互いに配役しながら、全体で物語を滞りなく進行することを余儀なくさせる。
ユングはこれを「集合無意識」といった。
これを直接実証することはできないけれど、各地に伝わる神話や伝承、昔話にその痕跡を求めることができるという。

この作品はギリシア悲劇だけど、「メディア」の名をはじめ、人名、神名、地名、国名といったすべての固有名詞はなくしてある。
登場するのはどこにでもいる「妻」と「夫」であり、「民衆」であり「神」であり「国」であるにすぎない。
よってこれは古代ギリシアを舞台にしながらも、時と場所を超えた普遍的な物語となりえた。

折しも『日本人の〈原罪〉』 (講談社現代新書)を読み終えたタイミングでこの舞台を観てしまった。
何を観てしまったって、ギリシア悲劇的手法で黄泉の国からこの世に蘇った、日本の神イザナミの「恥辱」と「怒り」よ。

日本人の「情」を動かしていた「理」は、忠義でも愛国でもない。
我らが国生みの「父」・イザナギを――男性原理を「免罪」するシステムそのものではないだろか。

■ イザナギとイザナミの物語〜国生みの神話より

イザナミといえば、夫の際限ない欲望に応え、ポンポン国を生まされ、ついには産褥死した、イザナギの「妻」であり、我が国の「母」だ。
さらに死んだあとにも、夫が黄泉の国まで追いかけてきて、「まだ国生みは終わってないぞ」と呼び戻しにくるのだ。
こ れ はwww
今で言うDVだろ D V www

昔はそんな概念なかったので、イザナミは断ることもせず、黄泉の国の主と交渉してくるから待っててねアナタとお願いするわけだ。
その際イザナミは「見ないでくださいね」と言って扉の向こうに姿を消すのだけど・・・見ちゃうんですねイザナギ。

「見るな」と言われた先にはいつだって、優しく美しいはずの「妻」「母」に激しく幻滅する、醜く恐ろしいモノが隠されてる。
イザナギが見てしまったのは、蛆虫がゴロゴロ音たてて湧いてる、愛しいイザナミの腐乱死体。
神話だけじゃない。
異種婚姻譚なら、サメや鶴、キツネや蛇といった畜生の本性。
それから、女性器。
出産現場。
傷病。
老い。
狂気。

これらはみな、献身的に自分の世話をしてくれている「妻」「母」がやつれ果て、傷つき、苦しみ、狂い、老い、死に、腐っていく、醜くてエグい、けれど、真の姿だ。
生と死が血みどろになって絡み合う“リアル”だ。

神話や昔話、童話やヒーロー物(←大事)に触れることで、私たちの中に“種”が撒かれる。
少しずつ時間をかけて、いつか直面せざるを得ない“リアル”に対する耐性を育ててる。

ところがうかうかと何の心の準備もなくいきなり“リアル”を直視してしまったイザナギは、ビビって、逃げて、呪って、イザナミもろとも黄泉の国に封じてきてしまったのです。
以来「この国」は、「美しく」保たれているのですよ。とっぴんぱらりのぷう。

――えーと、「ごめんなさい」は?

■ 忌まわしき者を愛するのが、女の「理」

王女メディアに話を戻そう。
「黄泉の国」に封じられた女たちが、「この世」の男に復讐を遂げるカタルシスを、私は味わってしまった。
ただの復讐劇で終わらないのは、生きたまま夫を苦しめるため、メディアが自分の子どもたちを殺してしまう点だ。
「自分のお腹を痛めて産んだ愛しいわが子を殺すだなんて何という恐ろしい母親!信じられない!!」
とかいう外野のツッコミはとっくにコロス(=観客の良心の代弁者)も言ってるし、メディア本人も言ってる。
子を愛しいと思うのは、自然な「情」なのだ。説明は要らない。
烈女といわれたメディアも、我が子を殺すことができない。
だったらなぜ子を殺さねばならないのだ?

メディアの心が決まるのは、自分の夫を奪っていった若く美しく心優しい娘の、むごたらしい死の報告を受けたときだろう。
自分の盛った毒によって全身が焼け爛れ、骨を露出させながら苦しみ悶え死んでいく憐れな女の死に様を耳にしながら、メディアの表情はますます美しさを増していく――中の人は80歳近い男の人なのにー!

男の「理」、男性原理は、愛する者と忌まわしい者を完全に分離する。
「乳をくれるいい母親」と「乳をくれない悪い母親」を別人だと思う乳児のように、
国生みの欲望の果てに死に至らしめ、さらには腐りはてた妻を異界に封じてきたイザナギのように、
機を織れと際限なく迫り、妻が畜生の本性を顕した後はただ呆然と立ち尽くすしかなかった与ひょうのように、
利用価値を失った古女房を捨て、若く美しい領主の娘を娶ろうとしたイアーソンのように、
愛する「母」を、「妻」を、自分の欲望のまま苦しめ、恥をかかせ、死に追いやってきた「現実」を、己自身の「罪」を、男たちは、私たちは、直視できなかったのだ。

だからこそ、メディアは我が子を殺すことができた気がする。
愛しい者を、気づかぬうちに傷つけ死に追いやるのが生きる者のサガならば、その現実を、苦悩を、悦びを、愛するすべてのお前たちに分け与えよう。
これが女の「理」だ。
女なら、愛しい者の腐りはてた骸だって、抱きしめることができるのだ。

■ 「美しい国」日本

メディアの子どもたちは、母親に殺される間際に「タスケテオカアサマ」と憐れな命乞いをする。
さらにこの子殺しの母親は逃亡し、隣国の領主に囲われ、生き延びる。
日本人はこうは描けない。
日本人なら、子どもは自ら進んで首を差し出させ、子を殺した母は狂うか自死するかさせるはずだ。
日本人がことさらに「情」を重んじるのは、自分たちの「美しい国」を守るための残酷な「理」を覆い隠すためだ。

「見ないでくださいね」。
と私たちの耳元で囁くのは、女の声、イザナミの声だ。
ムラムラする。
人は覗かずにはいられない。
誘い受けの祖だ(え)
イザナミとイザナギは共犯関係にあるのかもしれない。

しかし平幹二郎は、魔女メディアを男の身体、男の声で演じたのだ。
「見よ!」
彼は黄泉の国に囚われた孤独な魔女ではなく、人の上に君臨する王女だった。

テーマ : 演劇 ジャンル : サブカル

EDIT  |  15:09  |  舞台  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2011.11.04 (Fri)

[舞台] 劇団朋友「ロッカビーの女たち」

kujira_za

幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はそれぞれに不幸である(トルストイ「アンナ・カレーニナ」)

人間ひとりの想像力など全然及ばないのが“不幸”ってヤツだ。「お前の不幸などたかが知れている」と他者を軽んずる連中こそ、無知で蒙昧で不躾で臆病で卑劣で高慢なんだ。驕るんじゃない。
11-03 09:20

逆に言うと、他者の“不幸”に共感する必要はまったくないとも言える。ただ「私の想像をはるかに超える現実を彼は知っている」ことを知り、常に思い出せるようにしておけばいい。むしろ下手な「共感」が人を傷つけるのだ。
11-03 09:25

「ロッカビーの女たち」は、航空機爆破テロで息子を亡くした母親と、被害者たちの血肉がこびりついた衣類の切れ端を川で洗濯しつづける地元の女たちの物語。悲しみの癒えぬ母親が女たちに暴言を吐くが、彼女たちも同じく愛する者たちを失っていたことを告白した瞬間、母親の心が開く。この瞬間が「共感」なんだと思う。
11-03 09:41

 

「共感」に言葉は要らない。それはただ共鳴しあうだけだ。

EDIT  |  00:00  |  舞台  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2011.10.28 (Fri)

[言葉] 恐ろしいのは「意味」じゃない。

kujira_za

人は誰だってオウムみたいに、覚えた言葉をただひたすら繰り返してるだけなのす。意味なんてないのす。意味というのは、受け手の中で初めて生まれるのす。本当に恐ろしいのはオウムの言葉じゃなく、恐怖に駆られたオウムがふるう嘴や爪や羽にこびりついた血と細切れの肉の無意味。
10-27 15:11

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2011.10.27 (Thu)

[舞台] 劇団民藝「海霧」

kujira_za

「芝居は、1本ずつのよさもあるが、それが自分の中に溜まっていく。好きなのだけ観てたら、溜まらなかった」(神戸演劇鑑賞会で配布された「サークル懇談会で出た意見」より抜粋)

…ガツンときました。「好きなものだけ観る贅沢」とはまったく正反対の「贅沢」が、そこにあったようです。
10-26 16:14

演劇鑑賞会の何がいいって、好き嫌い関係なくオモシロイのに出会えるのと、70代80代の方々の忌憚なき感想がいろいろと伺えるところですよ。好きなものだけ観ている仲間同士だと、楽しいはずの意見交換がどうも殺伐としてしまうんですね。
10-26 16:32

「好きなものだけ観る」のはコンテンツ重視、「好き嫌い関係なく観る」のはコミュニケーション重視の楽しみ方なのかもしれません。
10-26 16:41

民藝の「海霧」。15分の休憩を挟んで2時間半のお芝居でしたが、時計を見る隙もないほど引き込まれましたよ。男尊女卑の時代にあって、中身が男のオレ女・りつ(中地美佐子)の魅力的なこと!りつ亡きあと、娘の千鶴(同)が「私、おばあちゃんみたいな人になりたい!」と主人公・さよ(樫山文枝)に向けて伝えられるこのセリフは、私たちの母や祖母や曾祖母世代への最高のご褒美ですよ。ありがとうですよ。
10-26 16:53

「女は男に隷従するもの」という古い考えを捨てても、女たちが担わされてきた労動は誰かが負わねばならない。そしてその労動には尊い価値があるのだと、改めて気づかされましたよ。たとえ十分な衣食住を与えられていたとしても、人間の尊厳を差し出し、踏みにじられる労動に従事している者のことを「奴隷」というのではないかと思います。
10-26 16:59

奴隷は必死こいても奴隷頭にしかなれない。奴隷頭は必死こいても奴隷しか育てられない。てめぇだけでも抜け出せよそこから。
10-26 17:03

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2011.10.26 (Wed)

[医療] 発声障害者にとっての「会話」

kujira_za

たとえば発声障害者にとっての「会話」は、セックスなみにハードルの高い行為だと思うのですね。見知らぬ相手にはなかなか肌は許せないでしょうし、乱暴な相手には身が固くなるでしょう。なのにいきなり相手に挑まれて手順をすっ飛ばして自分の欲望を満たそうとされると、こちらはもう半狂乱です。
10-25 12:42

人間にそなわった「言葉をしゃべる能力」というのは実に奇跡的なのだと、音声外科の一色先生の著書に書いてあった記憶があります。吹き鳴らされる管楽器のように繊細な構造とテクニックとが必要であると。
10-25 12:50

タグ : ジストニア

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2011.10.25 (Tue)

[育児・教育] 子どもとエロスと女の性欲

kujira_za

こういうことを言うと性的に抑圧された人たちの一部がヒステリー起こすかもしれないけど言ってみるテスト。子どもって実にエロティックだよね。
10-24 09:40

子どもにエロスを覚えるからこそ、お乳やったりおむつ替えたり身の回りの世話をしたりするのが厭わしいどころかむしろ悦ばしい。育児も性欲の一部ってわけだ。
10-24 09:49

「妻を子どもに取られた気がして憎かった」という理由で子どもに虐待する父親のニュースを耳にすると、動物的なレベルではそれが自然なんだろうなと思う。相方に聞いてみたら「君を子どもに取られたという気持ちはあるけど、憎いとかそこまではさすがにないなあ」おお、人間らしい人間がここにも(;ω;)。
10-24 09:58

世の中をよくしようと思って行動したり表現したりする人はたくさんいるけど、こういう動物的なレベルでの人間理解を深めない限り、どんなに議論を重ねても何一つ実はつかないと思うんだ。(それぞれの根っ子は張るし、葉っぱも茂るだろうけどね)
10-24 10:21

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